恵楓園資料館入所者の生きた軌跡を残す

入所者の生きた軌跡を残す

当館では、恵楓園開所以来作成されてきた様々な資料を収蔵しています。文書や生活資料、写真資料、映像資料などを収集・整理し、その考察の成果を社会に還元することを目指しています。ハンセン病療養所の入所者の多くは故郷、実家との関係が断たれており、また、たとえ関係が継続していたとしてもそれを人に知られることを隠さねばならない状況が続いています。

入所者の人生の記録は、ほとんど療養所の中にのみ残るのです。

社会の中で働いて業績を残す、あるいは子どもを生み育てることで命を未来に託す。そのような、人としてあたりまえのことが許されなかった入所者の人生。療養所の資料館は入所者がこの世に存在していたという事実を守る最後の砦なのです。

私たちは入所者の生きた歴史を知ることで、人が人の人生を踏みにじることの恐ろしさと愚かしさを知り、またそのことを通して人権の尊重される社会の重要さを実感することができます。

私たちは入所者の歴史を知ることで、よりよい社会を作るという決意を新たにします。そしてそのような気持ちで入所者の人生に向き合うことで、入所者は奪われた人生の意味を取り返すことができます。

入所者の人生が社会のなかで意味を取り戻す。これこそが真の社会復帰なのではないでしょうか。

 

入所者の生きた軌跡①  ――文書群――

当園は明治42(1909)年の開所以来、その運営の中で様々な文書を作成、収蔵してきました。事務文書やカルテ、「患者身分帳」と呼ばれる入所者の個人情報文書綴りなど、近代医療史の記録としても貴重な資料群となっています。

隔離政策の下では、患者は一度療養所に収容されると退所することは一生許されない、或いは退所することが困難な状況に追い込まれていきます。

恵楓園に残る文書をひもとくと、そのような患者、入所者らの半生を追うことができます。

入所者の個人情報に関する文書が一般公開されることはありませんが、専門家による考察を経ながらその研究成果は少しずつ社会に提示されていくことになります。

 

明治期入所者の「患者身分帳」

明治期入所者の「患者身分帳」

「患者身分帳」は入所者個々人に対して作成される様々な文書を編綴した冊子。具体的には身柄の送致書や身上調書、入所前の診断書、出身県に送付した死亡通知書の控えなどが納められている。開所期から現在まで作成・運用が続けられている冊子であり、後に「患者身分帳」と印字された表紙が付けられるようになった。入所者一人ひとりの半生を追うことができる貴重文書群である。

 

「九州療養所」に見る本妙寺集住患者の収容

「九州療養所」に見る本妙寺集住患者の収容

昭和11(1936)年に編集された「九州療養所史」の原稿。恵楓園の歴史上最初の記念誌だったが、刊行はされなかった。

 

「病床日誌」

「病床日誌」

写真は明治期の入所者の診療録。恵楓園歴史資料館には開所期以来の入所者診療録が多く収蔵されている。

 

 

入所者の生きた軌跡②  ――生活資料――

入所者は療養所のなかで生活するにあたり、様々な道具を用いてきました。療養所から支給される画一的な道具から、入所者自身で考案した独自の道具、園の外と変わらぬ身近な道具など、その一つ一つが各時代の入所者の生活の様相を具体的に示しています。

入所者はどのように生きたのか。その生々しい迫力が生活の道具には宿っています。

 

所持品箱

「所持品箱」

療養所から入所者に渡された物品入れ。入所者の集団生活の場である家族舎で用いられたもの。明治42(1909)年の「患者心得」の中にも「所持品箱」の記載があり、所内で使う品は「所持品箱ニ納メ散乱セザルヨウ注意スベシ」と定められている。この所持品箱は「九州癩療養所」の焼印があることから明治期に作成されたものと見られる。

 

加藤清正像

「加藤清正像」

明治42(1909)年、本妙寺から療養所に贈られた像。所内の宗教施設「説教場」に置かれていた。本妙寺周辺で生活を送っていた患者のうち、信仰心の篤い者は、療養所に連れて来られた後も本妙寺の方を向いて礼拝を続けていたため、その慰撫のため本妙寺から分霊を受けた。

 

義足

「義足」

入所者が用いた義足。戦前はブリキ製のものが用いられていた。精巧な作りではなかったため、義足の下の繃帯の巻き方にコツがあったという。

 

 

入所者の生きた軌跡③  ――写真資料――

「ハンセン病療養所はどのような場所だったのですか?」

この問いに的確に回答することは困難です。ある人は「収容所も同然」と答えるでしょうし、ある人は「治療エリアと生活エリアからなる施設」と答えるでしょう。或いは「患者だけが寄せ集められた村のような場所」と答える人もいるでしょう。

これらの回答はいずれも不十分であり、それゆえ質問をした人の側でも一人ひとり異なった、様々なイメージが頭に浮かぶはずです。また、療養所は時代によって大きな変化があるため「こういう場所だった」と一言で言われても、どの時代を指しているのかは不明瞭です。このような状況ではハンセン病政策の誤りや入所者の生き方を正確に伝えることは困難です。

言葉でどんなに詳しく説明しようとしても、たった一枚の写真で得られる情報にはかなわないことがあるのです。

当館では恵楓園、入所者自治会、入所者個人が撮影した写真の整理を進めています。撮影時期、撮影場所、撮影対象、撮影者などの情報を正確に把握することでハンセン病問題に関する定説を補強、或いはときに覆しながら、ハンセン病問題の歴史に対するより詳しい考察を可能にしています。

 

昭和25(1950)年恵楓園内で開かれた特別法廷の様子

昭和25(1950)年、恵楓園内で開かれた特別法廷の様子。罪を犯したハンセン病の患者は裁判所外で開かれる「特別法廷」で裁かれるのが普通であった。公正な裁判がなされていたのか疑問が持たれている。

 

昭和27(1952)年秋に開かれた学芸会の様子

昭和27(1952)年、秋に開かれた学芸会の様子。太平洋戦争前から園内には学校が設けられていたが正規の学校ではなく入所者から選ばれた「患者教師」が教鞭を執っていた。戦後にはこれに加えて園外の公立学校から教師が派遣されるようになったが患者教師の制度は長く続いた。

 

昭和28(1953)年5月に開かれた政府提出の「らい予防法」案に対する入所者の抗議集会

昭和28(1953)年5月に開かれた政府提出の「らい予防法」案に対する入所者の抗議集会。政府が作成した法案は戦前の隔離政策の多くを引き継ぐものであったため全国療養所入所者からは強い反対がおきた。恵楓園は「全国ハンセン病患者協議会」(現:全療協)の一支部として反対運動を展開した。

 

 

資料整理の様子

多くの方々にとって、資料館は「資料の展示場」として認識されています。しかしながら、実際には資料館は資料の収集・整理や調査の場でもあるのです。

皆さんが展示室で眺める写真一枚、読み上げる一文、それぞれに出典と根拠が存在しています。

誰が撮ったかよくわからない、何を撮ったかも判然としない写真をハンセン病問題の証拠として提示されても説得力を欠きます。誰が主張したか把握されていない、本当かどうかもわからない情報が解説として示されているとしたら、それは大きな間違いを含んでいるかも知れません。

出来る限り正しい手続で把握された資料・情報を用いるからこそ、ハンセン病問題について正しく理解することができます。またハンセン病問題を正しく理解するからこそ、現在の社会問題に対してもより正しい態度で向き合うことができます。

資料館ではそのために多くの人々が資料整理に励んでいるのです。

 

文書が収められる書庫

文書が収められる書庫。恵楓園が作成してきたカルテや事務文書の他、入所者自治会が作成した活動記録などを管理する。

 

生活資料が収められる所蔵庫

生活資料が収められる所蔵庫。入所者が使用した道具それぞれに恵楓園の歴史が刻まれている。