菊池事件

菊池事件

概要

菊池事件は、あるハンセン病患者が証拠不十分なまま逮捕され、裁判を受け、その結果、死刑となった事件です。事件が起きた熊本県北部を意味する「菊池」を用いて「菊池事件」と現在では呼んでいます。「菊池事件」は患者の逮捕から死刑の判決、刑の執行までの全体を指しています。

 

第1の事件

その発端は昭和26(1951)、県北のある元役場職員男性(当時50歳)の自宅に爆発物が投げ込まれるという事件でした。元役場職員は怪我をしましたが、捜査の結果、同じ村に住むある男性(当時29歳、ここでは「Fさん」と呼称)が逮捕されました。

元役場職員は、熊本県衛生課が実施した患者調査に対し「Fさんは患者である」と報告したことがあり、これを受けてFさんはいくつかの病院を巡り、自身が患者ではないという診断書を得て、そのまま村に住み続けていました。そのなかで起きたのが爆発物投げ込み事件であり、その事情から、患者として報告されたことを恨みに思っていたFさんが犯行に及んだと考えられたのでした。

 

出張裁判

Fさんは恵楓園内で開かれた熊本地裁の出張裁判(特別法廷)で懲役10年の判決を受けます。当時はハンセン病の患者が裁判所外で裁かれるのは当然のこととされており、Fさんもまともな審議、弁護、証拠の提出も無いまま判決を受けたとされています。

 

逃走

Fさんはこの判決に対して福岡高裁に控訴しますが、その控訴審中の昭和27(1952)年の6月にFさんは収容されていた恵楓園内の留置場(昭和13/1938年、本妙寺集落の患者収容を想定して設置された留置場)から逃走してしまいます。Fさんは後にこのときの逃走を「死ぬつもりだった」と証言しています。

留置場

留置場
撮影時期不詳。
菊池医療刑務支所が設置された昭和28(1953)年に廃止された。

 

第2の事件

Fさんは指名手配されますが、その3週間後の7月7日、爆発物を投げ込まれた元役場職員が山のなかでメッタ刺しにされているのが見つかりました。逃走しているFさんが真っ先に疑われ大規模な山狩りが行われました。7月12日、山中の小屋に隠れていたFさんは銃で撃たれ逮捕されました。

 

再度の出張裁判そして死刑判決へ

Fさんは取り調べ後に告発され、昭和28(1953)年8月29日に菊池医療刑務支所内で開かれた出張裁判で死刑の判決を受けました。その後、Fさんは控訴を行いますが、死刑の判決は覆ることはありませんでした。Fさんが死刑判決を受けた後の頃から、恵楓園入所者自治会はこの事件の正当性に対して疑いを持ち、Fさんの支援を始めます。菊池医療刑務支所に収監されるFさんの元を何度も訪ね、事情を聞き、裁判費用のための募金活動も行いました。Fさんが心配していた子どもの世話も自治会による援助が行われました。Fさんの救済活動のために全国の識者に呼びかけて「F氏を救う会」(実際の会名ではF氏の部分は本名が入る)を結成し、事件現場の視察にも出かけました。

菊池医療刑務支所門衛所

昭和30(1955)年頃
菊池医療刑務支所 門衛所

 

菊池医療刑務支所内に設けられた臨時法廷

撮影年不詳
菊池医療刑務支所内に設けられた臨時法廷

 

「F氏を救う会」菊池事件現地調査の様子

昭和37(1962)年8月25日
「F氏を救う会」菊池事件現地調査の様子

 

死刑の執行

Fさんを救おうとうする人々の熱意が高まりを見せていきましたが、Fさんの死刑は昭和37(1962)年に福岡拘置所で執行されてしまいます。自治会はその後、死刑執行抗議集会を開催し、Fさんの忌日法要を続けて来ました。遺族より譲り受けたFさんの遺品の一部は恵楓園歴史資料館にも収蔵されていす。

 

再審請求

菊池事件についてはその後、長きに渡り大きな動きはありませんでしたが、「らい予防法違憲国家賠償請求訴訟」の判決を受けた後の平成29(2017)年に再審請求を求める訴状が熊本地裁に提出されました。令和2(2020)年にはこれに対する判決が下され、裁判所は特別法廷の形でFさんが裁かれたことを「憲法違反」と指摘しました。再審請求自体は認められませんでしたが、Fさんが正当性を欠く裁判で裁かれたことは明確になったのです。

 

菊池事件を教訓に

菊池事件にはなお多くの人々が関心を寄せており、新たな動きも出ています。病気を理由にあるべき形で裁かれなかった人がいたこと、この重大な事実を看過することは許されません。