入所者の生きた軌跡を残す

恵楓園の歴史について調べる

明治時代の終わりから始められた隔離政策により、日本の各所に公立、国立のハンセン病療養所が作られました(ハンセン病問題について)

一口にハンセン病療養所の歴史といっても設置地域によってその全体像は大きく異なりますし、景観、歴史の辿った経緯も様々です。「ハンセン病療養所はこんなところだった」とひとくくりにすることは実は難しいのです。

療養所の歴史を一つずつ確認していくと、イメージ通りだった部分や、予想外だった部分、その両方が現れてくるでしょう。しかしながら個別の事実に固執するのではなく、それが他の事実とどのように関係するのか、或いは前後の歴史とどのように接続するのかを考えていくのが重要です。

たとえば恵楓園の場合、開所直後の段階では、療養所の周囲には壁や空堀などの患者逃走を防ぐ設備はありませんでした。ですから多くの入所者が療養所から外に無断で出て行ったのです。

だからといって隔離政策が緩やかなものだったとは言えません。「収容した患者が逃げ出してしまう」、その事実を受けて恵楓園では大正から昭和初頭にかけて空堀、壁が設置されていきます。後には入所者数を把握するために点呼までなされようになっていきますから、やはり歴史上、逃走防止は厳しく実施されたのです。

隔離の壁

恵楓園の周囲に立てられていた「隔離の壁」

 

また、そもそも開所期の入所者が逃げ出したのは何故だったのでしょう?開所期、療養所に集められたのは身寄りの無い患者、貧しい患者であり、今で言うホームレスのような生活を送っている患者達だったのです。

そのような立場の人たちが衣食住と医療を提供されるとすれば、その場を離れたいとは思わないのではないでしょうか。物質面だったのか、或いは精神面の問題だったのか、少なくとも療養所は長く住みたいと感じられる場所ではないから入所者は逃げ出したのです。

そのような視点から療養所が十分な施設であったかどうか具体的な事例を確かめながら考えて行かねばなりません。問題意識を持って事実に基づき歴史について考えることが重要であり、その視点を養うことが現在の社会問題に正しく向き会う姿勢を得ることにつながっていきます。

ここでは恵楓園の歴史について考えるために必要な、基礎的な情報を以下に示しています。

 

療養所敷地の変遷

菊池恵楓園の現在の敷地面積は589,519㎡となっており、この面積は福岡ドーム8.5個分(福岡ドームの建築面積69,130㎡)の広さにあたります。しかしながら開所当時からこの広さを備えていたわけではなく、敷地拡大をくり返すことによりこの面積を有するに至っています。

明治42(1909)年、九州7県連合立として設置された当初の面積は213,295㎡、現在の敷地面積に比して1/3程度の広さでした。その後、大正12(1923)年から大正13(1924)年にかけて行われた第1期拡張工事、昭和4(1929)年に第2期拡張工事経て敷地面積403,798㎡となり、現在の療養所の2/3程度の面積となりました。

園の敷地拡大は、収容患者の増大と園内の施設の拡充の必要性によってなされてきたものでした。簡単に言えば患者をより多く、より長時間生活させるために土地を広げる必要があったのです。

園の敷地は昭和26(1951)年になされた第5期拡張工事(第3、4期の拡張は敷地拡大ではなく、建物の増・新築)を以てほぼ現在と同じ面積となっていますが、この拡張は1000床増床、患者1000人分の追加収容を期して行われたものでした。

療養所の敷地、設備は最初から現在のように整備されていたわけではありません。時代の潮流、或いは園内で起こった出来事、地域の事情を受けて徐々に形成されてきたものなのです。

敷地拡大の様子

敷地拡大の様子

 

熊本、恵楓園で起きた出来事、事件

出来事・事件
明治 28 (1895) ハンナ・リデル、飽託郡黒髪村(現;熊本市中央区黒髪)に「回春病院」を設立
明治 31 (1898) ジョン・マリーー・コール神父、飽託郡花園村(現;熊本市西区島崎)に「琵琶崎待労院」を設立
明治 40 (1907) 「明治四十年法律第十一号」(通称「癩予防ニ関スル件」)公布。身寄りの無い貧しい患者を公立療養所に収容する法律
明治 42 (1909) 九州各県連合立第5区九州癩療養所開所(後の国立療養所菊池恵楓園)
明治 44 (1911) 九州癩療養所が「九州療養所」に改称
大正 5 (1916) 「明治四十年法律第十一号」改正、(療養所長に患者を罰する権限(懲戒検束権)が与えられる
大正 6 (1917) 前年の懲戒検束権の付与に基づき九州療養所内に監禁室設置
大正9 (1920) 九州療養所内に火葬場が設置される
大正 15 (1926) 九州療養所患者自治会結成
昭和 4 (1929) 九州療養所の西側と北側にコンクリートの壁構築
昭和6 (1931) 「明治四十年法律第十一号」が改正され「らい予防法」となる。財産による入所制限が撤廃され、ハンセン病の診断を受ければ誰でも療養所に収容できるようになる
  所内に学齢期入所者のための学校「檜小学校」竣工
昭和 10 (1935) 財団法人癩予防協会が運営する未感染児童保育所「恵楓園」が九州療養所敷地内に開所(「未感染児童」とは、ハンセン病患者を親に持つが本人は患者ではない子どものこと)
昭和 11 (1936) 所内に学齢期入所者のための学校「九療学園」が竣工。同年、礼拝堂開堂、恩賜治療棟なども竣工
昭和 13 (1938) 「熊本県警癩留置場」設置。療養所の外で罪を犯した患者を収容するために(主に本妙寺集落の患者が想定された)、県警が九州療養所の土地を一部借り受ける形で設置。
昭和 14 (1939) 全国宗教団体の寄付を受け、納骨堂移転拡張。ただし、前身の納骨堂がいつ建立されていたのかは不詳
昭和 15 (1940) 「本妙寺事件」起こる
昭和 16 (1941) 回春病院閉鎖。時局の影響を受け、同院経営者エダ・ライトがスパイ疑惑を受けたたため。同院入所患者58名は九州療養所に移される
  全国にあった府県連合立の6つの療養所が国立に移管。「九州療養所」も国立に移管され「菊池恵楓園」と改称
昭和 17 (1942) 財団法人癩予防協会が運営する未感染児童保育所「竜田寮」が回春病院跡に竣工。これに伴い所内の未感染児童保育所「恵楓園」が閉鎖、児童は竜田寮に移される
昭和 20 (1945) 衆議院議員選挙法の改正により、ハンセン病患者にも選挙権が与えられる
昭和 21 (1946) 東大薬学科石館守三教授、特効薬であるプロミンの合成に成功
昭和 23 (1948) 優生保護法公布。ハンセン病の患者については、親(患者)の同意があれば妊娠中絶手術が可能となる。これにより患者への中絶が合法化される(中絶手術自体は太平洋戦争前から実施されていた)
  プロミン治療始まる(恵楓園32名)
昭和 24 (1949) 全国の療養所自治会と連動したプロミン予算獲得運動が始まる
  恵楓園分校(公立栄小学校・合志中学校)設置。園内にあった学校が正規の学校となる
昭和 26 (1951) 参議院厚生委員会で三園長(長島愛生園長 光田健輔・多磨全生園長 林芳信・菊池恵楓園長 宮崎松記)がハンセン病患者の隔離継続の必要性を証言
  恵楓園1,000床拡張工事完成。事務本館(後の歴史資料館本館)なども竣工
  全国ハンセン病療養所入所者が連合した「全国癩患者協議会」結成(現;全国ハンセン病療養所入所者協議会)
  恵楓園入所者自治会機関誌『菊池野』創刊
  「菊池事件」起こる
昭和 28 (1953) 恵楓園の南側に「菊池医療刑務所支所」設置
  「らい予防法闘争」が起こる
  500床拡張工事完成
  「らい予防法」公布
  「竜田寮事件」起こる
昭和 34 (1959) 恵楓園の病棟看護が職員に全面切替
昭和 35 (1960) 恵楓園園内火葬場廃止
昭和 51 (1976) 恵楓園内の分教場が閉校
  恵楓園内に既にあった納骨堂に代わり、新たに納骨堂を建立
昭和 52 (1977) 恵楓園附属看護学校開校
昭和 61 (1986) 菊池医療刑務支所更新築
平成 3 (1991) 台風17・19号直撃。礼拝堂など園内の歴史ある建物が損壊
平成 5 (1993) 事務管理棟(本館)竣工。昭和26(1951)年の事務本館は倉庫の扱いとして残る。後の歴史資料館本館
平成 6 (1994) 旧礼拝堂、恵楓園分校解体
平成 8 (1996) らい予防法廃止
平成 10 (1998) 熊本地裁に「らい予防法違憲国家賠償請求訴訟」の訴状が提出される
平成 13 (2001) 「らい予防法違憲国家賠償請求訴訟」原告側勝訴
平成 15 (2003) 阿蘇の黒川温泉で「宿泊拒否事件」起こる
平成 17 (2005) 西側のコンクリート堀撤去
平成 18 (2009) 旧事務本館を改修、「社会交流会館」という名称の資料館としてオープン
平成 25 (2013) 社会交流会館リニューアルオープン
令和元 (2019) 熊本県で開催されたハンセン病市民学会において、九州療養所入所者の遺体から熊本医科大学医師が骨格標本を作成していたことについての問題提起がなされる(「骨格標本問題」)。
  旧菊池医療刑務支所跡地解体。厚労省・法務省の同意の下、刑務所内にあった設備の一部が恵楓園に譲渡。設備は資料館展示室における刑務支所独房の再現展示の作成に用いられた。
令和2 (2020) 新型コロナウィルス感染拡大防止のため、社会交流会館への見学受入を停止。リニューアルのための改修工事も開始されたため、受入停止は2022年5月まで継続。
  恵楓園内に胎児慰霊碑建立
令和4 (2022) リニューアル式典開催。社会交流会館が「恵楓園歴史資料館」と改称される。