恵楓園資料館宿泊拒否事件

宿泊拒否事件

概要

平成15(2003)年、熊本県が実施した「ふるさと訪問事業」に参加した恵楓園入所者18名の宿泊をホテル側が拒否したことから生じた一連の事件、これが「宿泊拒否事件」です。事件の渦中にあった温泉地の名をとって「黒川温泉事件」と呼ぶこともあります。

 

事件が起きたときの社会の状況

らい予防法違憲国家賠償訴訟(以下:国賠訴訟)の訴状が平成10(1998)年7月に熊本地裁に提出されて以降、テレビやマスコミがハンセン病問題を取り上げることが多くなり、この問題に関心を持つ人々も増えてきていました。

国賠訴訟の原告側勝訴判決は平成13(2001)年5月11日に下されますが、国に補償を求めて新たに訴訟に参加する原告も多くおり、法廷闘争は平成15(2003)年10月まで続きました。

国賠訴訟

〈国賠訴訟〉
平成10年熊本地裁に訴状が提出されて以降、テレビやマスコミがハンセン病問題を取り上げ、関心を持つ人も多くなってきた。
撮影年月日  平成13(2001)年 5月11日

 

「ふるさと訪問事業」

家族、生まれ故郷から引き離されて生活を送るハンセン病療養所の入所者にとって故郷を訪ねるということは特別な意味を持ちます。
「家族に迷惑がかかるのではないか」
「自分が療養所に入っていることを周囲の人々に知られると困るのではないか」
そのような事情から帰りたくとも帰れない入所者が多くいました。

そこで、里帰り支援を入所者の出身県が行うということが始められました。たとえ自分の生家、生まれた町や村を直接訪問することはできないにしても出身県に帰ってきてもらい、里帰りの気分を味わってもらう。これが各県・各自治体が実施する「里帰り事業」の概要です。

里帰り事業

〈里帰り事業〉
故郷から引き離された入所者たちの里帰りを支援する事業。各療養所から同じ出身県の入所者が参加し交流する大切な場となっていた。写真は平成16(2004)年に行われた長崎県の里帰り事業の様子。
撮影年月日  平成16(2004)年 5月18日

 

同事業は、鳥取県から始まりますが、次第に全国に広がりました。事業の形態は各地方自治体によって異なりますが、やはりどの自治体も入所者に直接故郷を訪問してもらうということは難しく、県内の観光地を巡り、見物するのが一般的な形となっていました。それでも故郷を同じにしながら全国の療養所で個別に生活を送る入所者が、この事業を機会に集まり共に出身県を巡るのは、入所者にとっては非常に大きな楽しみ、交流の場となっていました。熊本県で実施されていた同事業は、国賠訴訟を経て「ふるさと訪問事業」として再出発しました。

 

事件の発端

「ふるさと訪問事業」は熊本県でも実施されており、熊本県は県出身者(県人会)と協議したうえで、天草・阿蘇・人吉の3地域の中から旅先を選んでいました。平成15(2003)年の「ふるさと訪問事業」の際にはこの中から阿蘇地域が選択され、宿泊先は阿蘇郡南小国町にある黒川温泉、そのなかのホテルに決まりました。黒川温泉は緑豊かな景観のなかに奥ゆかしくたたずむ温泉郷であり、平成15年当時は特に町おこし事業に成功し、全国的に名だたる観光地となっていました。

黒川温泉

〈黒川温泉〉
阿蘇郡南小国町にある温泉郷。
昭和55(1980)年頃から始められた町おこしに成功し、現在では、全国的に有名な観光地となりました。写真は、2012年から始まった冬季限定で開催される「湯あかり」の様子。
撮影年月日  令和3(2021)年 2月8日

 

このときの「ふるさと訪問事業」に参加を申し込んだ恵楓園入所者18名は旅行を楽しみしていました。しかしながら旅行直前、1週間前の熊本県とホテル側の最終打ち合わせの際に、ホテル側は「ハンセン病の元患者は宿泊させることはできない」「他の宿泊客に迷惑がかかる」と宿泊を拒否しました。熊本県は宿泊予定日のおよそ2か月前にホテル側に宿泊予約をしていたのですが、ホテル側は「元患者が宿泊するなど、聞いていなかった」と主張しています。

宿泊拒否はホテルを経営する会社側の判断によるものでしたが、現場で働くホテル従業員は入所者の宿泊ということを知っても特に気にすることなく宿泊を受け入れる準備をしており、宿泊拒否の判断は従業員の間でもやはり急な対応でした。

 

全国的なニュースへ

その後、ホテル宿泊拒否について潮谷義子熊本県知事(当時)が定例会見で言及したことにより、この件は全国的に報道される“一大事件”へと発展していきました。

恵楓園入所者自治会の方でも宿泊拒否の判断を誰が下したのか、どのような経緯で問題が生じてしまったのかを確認するために自治会役員でホテルを訪問することとなりました。この際、応対に出たホテル支配人の態度は非常に険悪であり、宿泊拒否は「ホテル支配人である私の判断」「裁判(国賠訴訟)は、国とあなたたちの話。私たちには関係ない」と明言しました。

ホテル側のこのような主張が報道されるなかで、ホテルに対しては多くの批判・非難が寄せられるようになりました。追い詰められたホテルが事態の収拾を図るために自治会を訪問、謝罪することとなりましたが、この際「宿泊拒否は支配人の判断ではなく、本社の判断であった」など以前の主張と異なる部分があったため、自治会側はその点を指摘、謝罪の受け入れを拒否しました。「本社の判断」と言いながら提出された謝罪文には会社経営者の署名は無く、責任の所在を曖昧に済まそうとする意図が垣間見えたのです。

入所者の宿泊を拒否したホテル

〈入所者の宿泊を拒否したホテル〉
東京都に本社のある企業が運営していたホテル。廃業後に取り壊しを行い、現在は更地になっている。
撮影年  平成15(2003)年

 

ホテル関係者の来園

〈ホテル関係者の来園〉
事件後、ホテル関係者は何度も恵楓園を訪れた。写真はホテル側の1回目の謝罪の時の様子。自治会は、拒否の経緯について問いただした。
撮影年月日  平成15(2003)年11月20日

 

多くの手紙が届く

恵楓園入所者自治会の主張は至極まっとうなものでした。しかし「入所者自治会がホテル側の謝罪を拒否した」という報道が流れると事態は一変しました。「謝罪の受け入れ拒否」というその部分が強調されたせいで自治会側が頑迷な判断をとっているという見方がなされるようになり「何様のつもりだ」「ホテルからも賠償金をせしめるつもりか」などの中傷が自治会側に寄せられるようになったのです。

入所者自治会には全国から誹謗・中傷の電話、手紙が殺到しました。入所者は全国から送られる誹謗に疲れ、心に大きな傷を負いました。「裁判で勝っても世の中は変わっていないじゃないか」、その思いに打ちひしがれたのです。

誹謗・中傷の手紙(一部)

〈誹謗・中傷の手紙(一部)〉
手紙の内容は事件の経緯を知らず、偏った考えを正論として述べている内容がほとんどだった。
消印年月日
左  平成15(2003)年12月24日
右  平成15(2003)年12月8日

 

当時、自治会の会長として対応にあたっていた太田明(おおた・あきら)さんは「もらった手紙の中で一番ショックだったのは『お前たちは、ホテルに行くよりも、温泉に入るよりも早く骨壺に入れ』や『それからお前たち、外に出るときは顔にアイロンをかけろ』と書かれているものだった。まさに言葉の暴力だった」と語っています。

誹謗・中傷の手紙が送られてくる一方で、全国から励ましの手紙や葉書も多く届きました。太田さんはこのことについて「葉書1枚でも励まされた。それが、無ければ深い海の底に沈んだままだった」と話しています。

励ましの手紙(一部)

〈励ましの手紙(一部)〉
手紙の多くは、自治会や入所者と関わったことのある学生から多く届きました。
消印年月日
平成15(2003)年11月21日

 

全国から届いた数手紙や葉書電  話
励ましの内容 約210通 約130件
誹謗・中傷の内容 約120通 約150件

 

ホテルの廃業、労働問題への発展

宿泊拒否が行われたことにつき、熊本県はホテル側に対し「重大な人権侵害であり、不当な宿泊拒否に当たる」として、ホテルに対し旅館業法の罰則規定に基づく営業停止3日間の行政処分を下しました。

ホテルを経営する会社は、この処分を受けたのち時をおかずしてホテル廃業を決定、廃業届を県に提出すると同時に地元従業員32名を解雇しました。

ホテルが宿泊拒否を決定した際、従業員は特に疑問を持つことなく宿泊の準備を行っており、ハンセン病に対する強い偏見を持っているわけではありませんでした。会社上層部の判断に翻弄され、急に失職することとなった従業員らは会社を相手に取り、不当解雇と従業員の地位確認・精神的苦痛に対する損害賠償などを求め、提訴しました。現場の事情を把握していた自治会役員らもこの訴訟を支援し、熊本地裁まで足を運びました。

熊本地裁前決起集会

〈熊本地裁前決起集会〉
熊本地裁前での決起集会には、自治会も参加しました。代表として、太田会長(当時)が支援の挨拶を行いました。(写真中央)
撮影年月日  平成16(2004)年11月11日

 

約1年半後に、ホテル会社と元従業員らとの間で和解が成立しましたが、ホテルの急な廃業という報道はやはり自治会への中傷に繋がることとなり「お前らがホテルをつぶした」といった手紙が多く寄せられました。

ホテル元従業員が提訴している様子

〈ホテル元従業員が提訴している様子〉
「宿泊拒否」された入所者と「不当解雇」された元従業員、会社に「人権侵害」された被害者として一緒に戦いました。
撮影年月日  平成16(2004)年11月11日

 

事件をのりこえて

根強く残るハンセン病に対する差別は、国や県の取り組みだけで克服できるものでは無い。事件を通してこのことが明白になると、太田さんはすぐに次への歩みを始めました。「我々当事者が主役となって、ハンセン病問題を訴え、差別解消に取り組まねばならない」、このことを思い知ったのです。

宿泊拒否事件の後には、入所者による講演、園内施設見学の受け入れが盛んに行われるようになりました。ホテルが宿泊を拒否した翌年、平成16(2004)年には、1年間で園内外合わせて305件、合計で34830人に対して自治会役員、入所者らは講話を行っています。太田さんもこの事件以降、 13年間にわたり大学へ非常勤講師として招聘され、講義を続けました。

自治会啓発活動

〈自治会啓発活動〉
自治会の年間の啓発活動記録である。事件後の平成16年以降、活動が盛んになった。
令和4(2022)年現在

 

差別を無くすには ―自身の心と向き合うことの重要性―

入所者に対する宿泊拒否事件に始まり、入所者に対する悪質な誹謗・中傷事件への発展、さらには、ホテル従業員の解雇という、多くの方々を巻き込み展開した事件、それが宿泊拒否事件でした。

国賠訴訟によって明確になったはずの政策の誤り、差別意識の克服の必要性を、社会の多くはほとんど理解していなかったのです。

報道加熱のなかで誤解が生じ、多くの誹謗中傷が入所者に向けられましたが、その際に送られてきた手紙を読むと「私たちは温泉にもいけないのに」「私たちはこんなに働いているのに」という、自身の不遇を恨む言葉が多く見いだされます。報われないという感情、憎しみ、これらをぶつける対象を常に探し求めている人々が多くいることがうかがえます。

差別を無くすためには、正しい情報をしっかりと伝えねばならない。それと同時に、誰かを憎む必要のない社会、お互いが尊重され、尊敬する、そのような社会をつくるようにも努力していかねばなりません。

差別文書綴り

『差別文書綴り』(入所者自治会発行)
全国から届いた誹謗・中傷の手紙や葉書を編纂したもの。刊行については自治会内でも反対の声があがったが、「ハンセン病当事者が置かれてきた境遇を伝えたい」という思いから太田会長(当時)が刊行を決断した。
発行年月日  平成16(2004)年4月19日