ハンセン病問題について

ハンセン病問題について

ハンセン病問題とは

ハンセン病は外見に出やすいその症状、また一度発症すると回復することが困難であったという事情から世界の各地で恐れられ、患者は忌避されてきました。日本でもかつては「癩病(らい病)」と呼ばれており、患者は激しい差別にさらされていました。

近代の日本では感染予防のために、公立・国立の療養所を設置してそこに患者を収容するという隔離政策が行われました。有効な治療薬が無い時代、病気を発症すると回復することは難しく、患者の多くは生涯に亘って療養所で生活を送らねばなりませんでした。しかしながら「らい菌」の感染力の弱さを考慮すれば、病気の克服のためには患者を療養所に閉じ込めようとするよりも、社会全体の衛生環境・生活環境の向上を目指すほうが効果的であったと現在では考えられています。いき過ぎた隔離政策であったことは否めません。

また特に太平洋戦争前後の療養所の生活水準は低く非常に苦しいものであり、療養所に収容されたことでかえって病状を悪くした者も多くいました。療養所では結婚は出来ても子供を産むことは許されなかったので、孤独に人生を終える者も多くいました。

日本では戦後から有効な治療薬が用いられるようになり、患者の多くは回復者に変わっていきましたが、それにもかかわらず隔離政策は継続し、そのために病気に対する正しい理解は広がりませんでした。

隔離政策が終わり、ハンセン病に対する治療法が確立されている現在においてもこの病気に対する誤った認識(罪を犯した者がかかる、遺伝病である、強い感染力を持つ伝染病である、不治の病であるなど)を持っている人は少なくありません。またそのような事情から、たとえ患者本人及び周囲の人物が正しい認識を持っていたとしても、患者であること、患者の親類縁者であることを打ち明けるのが困難であるという現状があります。

感染症は誰もがかかる可能性があるものです。それなのに、たまたま自分が病気になってしまった、或いは病気になった者が親戚にいる、そのような事柄を生涯に亘って隠し、苦しみ続けねばならない人々が今もいるのです。

人はどうして人を差別するのでしょうか。どうして人は人を傷つけてしまうのでしょうか。ハンセン病の問題は今を生きる私たちに深く問いかけてきます。

 

日本におけるハンセン病の歴史

日本においてハンセン病はかつて「癩病(らい病)」と呼ばれており、激しい差別の対象となっていました。この病気は他にも「天刑病」(天罰としての病)、「業病」(前世の報いによる病)などとも呼ばれており、それぞれの名称に差別の文化的背景が窺われます。親子、血縁者で引き継がれる病、遺伝病のようなものとして捉えられることもあり、差別は患者本人だけでなく、その一族に及ぶこともありました。またそのような事情から患者がいることを周囲に隠す、患者が故郷を離れて放浪するということもありました。

「癩」という言葉は古代から用いられていますが、これはハンセン病をそのまま指す言葉ではなく、その他の皮膚病を含む意味で用いられたこともあり、また場合によって他の病と混同されて用いられていた可能性もあります。ハンセン病の病理学的な解明、鑑別は19世紀以降に可能になったものであり、歴史書に「癩」という言葉が見られた場合には“ハンセン病を主に指しながら、外観に著しい変化が現れるその他の皮膚病も含んでいる可能性がある”と理解されるべきでしょう。

また、「癩」という言葉にはその用法上、差別的なニュアンスが強く含まれてきたため、現在では「らい菌」などの用例を除けば使用を控えるべき言葉であるとされています。

ただし、歴史を顧みる際にはハンセン病ではなく「癩」という語を用いる方が当時の文化・社会を的確に理解できるため、歴史用語としての「癩」という語は許容される傾向にあります。

 

古代から中世

古く日本では『日本書紀』(720年成立)中、「推古天皇二十年」の項に「癩」に関する記載が見られます。それによると「推古天皇二十年」、つまり西暦612年頃に、“百済から帰化を求める者があったが、その顔や体に斑紋(原文では「班白」)があり、そのため「白癩」であると疑われ、海の孤島に置き去りにされかけた”と記述されています。この頃には既に患者が忌避の対象とされていたことが窺われます。

古代の法令集「養老律令」(757年成立)中「戸令」(納税などに関する規程)には「目盲条」という病者・身体障害者に関する規程が設けられていますが、このなかにある「悪疾」は「白癩」であるとされています(「養老律令」の注釈書「令義解」による)。悪疾の者には税の免除や肉親による介護を与えることが定められていますが、この頃には「癩」は人から人に伝染する病であると考えられていたとされています(「令義解」中「能く傍人に注染」という記載に基づく)。

中世に入ると真言律宗の僧侶、忍性(1217-1303年)の教団による患者救済運動が行われ、また、時宗の開祖・一遍(1239-1289年)も患者と共に生活を送るなど、仏教による救済が盛んになっていきます。ただしこのような仏教徒による救済、民間レベルでの仏教の受容は、「癩」を「業病」、本人のかつての行いに対する報いという考えを広めていくことにもなりました。

戦国時代の終わり近くからは(1560年頃―)にはキリスト教宣教師による癩病院が日本の各地に作られるようになり、関東・関西・中国・九州の各地方に多くの病院が作られました。しかしながらこれらの病院も江戸時代に入りキリスト教が禁止されたことにより閉鎖されました。

 

近世

江戸時代に入り、社会が安定することにより病気の発症率は下がっていくことになります。ハンセン病は幼少期、神経系が未発達な段階での患者との濃厚接触により感染する可能性が高いとされていますが、これにより特定の血縁者のなかで「癩」が受け継がれているという見方がされるようになっていきます。「家」観念の発達もこれに拍車をかけます。「癩」が特定の家筋で引き継がれる病であると見なされるようになったのです。

「家」に迷惑をかけないよう自発的に、或いは親類から促されて故郷を離れた患者たちは、特定の寺社の前で物乞いをしたり、各地を放浪したり、という生活を送りました。江戸時代の終わり頃には故郷を離れて生活する患者達の集住地が日本各地に生じています。

一方で親類・縁者の理解のもと、故郷に留まりながら生活を送ることができた患者の存在も想定されるべきですが、これについては今後各地の郷土史のより詳細な検討によって実態を明らかにしていく必要があります。

 

明治~昭和初期

1867年、幕府は政権を朝廷に返還し(大政奉還)、その翌年(1868)から明治時代が始まります。明治政府は政治、軍事、医学、教育、様々な知識を欧米から積極的に輸入します。日本の医療・衛生も明治期から諸外国に倣った制度が構築されていきます。

1873年、ノルウェーの医師、アルマウェル・ハンセンが「らい菌」を発見しました。現在の呼称、「ハンセン病」はこの医師の名前からとられたものです。1897年の第一回国際らい会議では「らい菌」がハンセン病の病原体であることが正式に認められ、特に流行地域では隔離が有効であることが決議されました。

同時期、日本は迅速な近代化を実現するために様々な制度策定、改革を断行していましたが、そのなかで、各地でみすぼらしく物乞いの生活を送るハンセン病の患者が問題視されるようになっていきました。彼らに衣食住を与えるため、また、彼らの姿を日本を訪れた外国人の眼から遠ざけるため、隔離政策が始められます。

ハンセン病の患者がかつて物乞いをしていた本妙寺前参道

ハンセン病の患者がかつて物乞いをしていた本妙寺前参道(令和3/2021年1月撮影)

 

明治40(1909)年にハンセン病に対する日本で初めての法律、「明治四十年法律第十一号」(通称;癩予防に関する件)が公布されました。これは全国を5つの区画に分けて各道府県連合立の療養所を5か所つくり、そこに貧しく身寄りのない患者を収容するという法律でした。現在の菊池恵楓園の前身である「九州七県連合立九州療養所」もこのときに設置されています。

「癩予防ニ関スル件法律案」

「癩予防ニ関スル件法律案」(国立公文書館所蔵請求記号01047100)

 

開所当時の九州療養所

開所当時の九州療養所

 

この法律には、患者を保護するという側面もありましたが、療養所の生活は十分なものとは言えず、療養所から無断で逃げ出す患者、無断外出を繰り返す患者、また、問題行動を起こす患者も多くいました。

このような患者達に対応するために大正5(1916)年には法律第十一号が改正され、療養所長の権限で規則違反をした患者に対して罰をあたえる事ができるようなりました(懲戒検束権付与)。これにより各療養所には「監禁室」と呼ばれる患者を拘禁する施設が作られました。九州療養所にも大正6(1917)年に監禁室が設置されています。

現在も残る監禁室

現在も残る監禁室(令和2/2020年撮影)

 

法律は更に昭和6(1931)年に改正され「癩予防法」となりました。この改正により、それまでは身寄りのない患者に限定されていた療養所への収容が、病気を広げる可能性のある全ての患者(「病毒伝播の虞れのある者」)に拡大されました。“病気を広げる可能性のある患者”という表現は曖昧であり、感染力が微弱とは言え、ハンセン病が伝染病であることを考えれば、この条文はどこまでも拡大解釈が可能でした。人目をさけて生活する患者、人との接触をさけて生活する患者も収容できるようになったのです。結果として“ハンセン病の患者でありさえすれば療養所に収容することができる、収容せねばならない”という考えが支配的になっていきました。

昭和6(1931)年「癩予防法」への改正

昭和6(1931)年「癩予防法」への改正(国立公文書館所蔵 請求記号01765100)

 

また昭和初期から日本では「無らい県運動」と後に呼ばれる運動、各地から患者を探し出して療養所に送致しようとする運動が展開されていきます。この運動は各自治体、有志の団体によって主に担われましたが、その中心となったのは大正天皇の后、貞明皇后の御下賜金を用いて昭和8年(1933)年に設立された「財団法人癩予防協会」でした。患者を療養所に収容することが皇室の御仁慈(いつくしみ)であるということが盛んに喧伝されるようになり、患者が社会の中でますます追いつめられていきました。

財団法人癩予防協会が開催した「癩予防デー」のポスター

財団法人癩予防協会が開催した「癩予防デー」のポスター

 

貞明皇后肖像写真(恵楓園園長室所蔵)

貞明皇后肖像写真(恵楓園園長室所蔵)

 

隔離を徹底するために各地に国立療養所が設立され、また先に設置されていた5か所の連合立療養所も昭和16(1941)年に国立に移管されました。九州療養所もこのとき国立療養所菊池恵楓園となっています。

 

入所者自治会の結成

法律が改正され、患者を療養所に送る動きが強まる一方で、各療養所の中ではその入所患者(入所者)らの生活改善運動が始まっていきます。九州療養所では大正15(1926)年に入所者自治会が結成されます。回復が見込めず療養所で人生を送る他ないという切実な状況から、入所者は団結して生活改善運動を推し進めていきます。自治会は療養所維持のための作業を一部請け負う、或いは材料を買い付けてそれを元に加工食品を作って入所者給食の食材として療養所に納品するなどといった各種事業を所内で実施しました。そのような形で自治会独自の資産を作り、それに基づき入所者の福利厚生を進めていったのです。

自治会事業として実施された養豚

自治会事業として実施された養豚

 

自治会が運営した印刷所

自治会が運営した印刷所

 

しかしながらそのような事業を行ったとしても結局は療養所にあてがわれた予算、その内、外部業者に支払われていたものを入所者宛に支払ったにすぎず、自治会事業の成長にはおのずから限界がありました。入所者は労働と引き換えに対価を得ていたことになりますが、無理な労働は身体障害の度合いを引き上げることにつながっていきました。

それでも自治会の結成により入所者の助け合いの気持ちは強くなり、また、各種の文化活動も活性化していきます。入所者に生きる目標・希望を与えた意義は非常に大きいものがありました。

入所者が刊行した文芸誌

入所者が刊行した文芸誌

 

 

太平洋戦争の前後

昭和12(1937)年の日中戦争開戦以降、日本における「国民意識」は徐々に高まりを見せていきます。国に尽くす、あるべき日本人像といったものがイメージされていく一方、それに反すると捉えられた人々は軽蔑の対象となっていきます。本人が望まないにもかかわらず療養所での生活を強要された入所者らは、国の厄介者であるかのような扱いを受けました。また、療養所の外で患者集落を作り、何とか外での生活を継続しようと試みた人々の想いも集落の解体という形で終わりを告げます。昭和15(1940)年には熊本市内、日蓮宗寺院・本妙寺の周辺に形成されていた患者集落が警察により解体されています(本妙寺事件)

昭和15(1940)年本妙寺患者集落の解散

昭和15(1940)年 本妙寺患者集落の解散

 

昭和16(1941)年に太平洋戦争が始まりました。同年、各公立療養所は国立に移管され、九州療養所も菊池恵楓園となりました。国立の施設となった療養所内には「奉安殿」や皇室も祀る神社など、皇室を賛美する施設・建物が多く設置されていました。国民の枠内から排除された入所者らは、療養所の中では国民としての自覚を促されるという矛盾した扱いを受けたのです。

恵楓園のなかに建立された恵楓神社

恵楓園のなかに建立された恵楓神社

 

戦争継続の中で医療物資・食料は減少していき、入所者は厳しい生活を強いられます。それにもかかわらず入所者は更に生活を切り詰めて国に寄付を行っていました。この寄付は、戦争遂行を掲げる風潮の中で自身らの存在に負い目を感じねばならなかった、そのような入所者の心情の表れではなかったでしょうか。恵楓園では、生活の困窮から昭和16-20(1940-1945)年の5年間、毎年100名の死者が出ています。後にも先にも、入所者の年間死亡者数が100名を上回ったのはこの期間だけです。

昭和20(1945)年空襲を受けた恵楓園

昭和20(1945)年 空襲を受けた恵楓園

 

昭和20年(1945)、太平洋戦争は終わりを告げました。様々な感情が渦巻く中で入所者は新たな時代に足を踏み入れていきます。

昭和22(1947)年、 国内でハンセン病に対する特効薬「プロミン」の試験的使用が開始されます。プロミンはハンセン病に対する初めての化学療法薬であり、菌を鎮める作用(静菌作用)がありました。実は既に昭和18(1943)年にアメリカ合衆国のカービル療養所(ハンセン病療養所)ではその効果が確認されていたのですが、戦時中であったため国内への導入は戦後になってしまいました。

プロミンの効果は全国療養所入所者の知るところとなり、入所者はその投与を熱望します。しかしながら予算化はなされませんでした。病により刻一刻と体を侵されていくなかで焦りと強い憤りを感じた入所者らは全国療養療養所の入所者自治会と連絡を取り「プロミン獲得促進委員会」を結成、国に対して全入所者への投与を要請し、これを実現させました。

ハンセン病は治療できる病となったのです。

「プロミン獲得促進委員会」の結成を通して関係を持った各自治会は「全国ハンセン病療養所患者協議会」(全患協)を結成、一致団結して国と協議を行うようになっていきました。

 

らい予防法闘争

ハンセン病は治療可能な病となりました。しかしながら昭和28(1953)年に戦前の隔離法を引き継ぐ「らい予防法」が新たに公布されました。戦争が終わり民主化の時代を迎えた、病気に対する特効薬もできた、この時代に隔離法が継続することに憤慨した入所者らは法律公布の前に激しい抗議運動を行います。この運動を「らい予防法闘争」と呼んでいます。

この運動の中では本当に患者・入所者のためになる法律の草案が作られるなど、各自治会館で熱心な議論が繰り広げられました。具体的な抗議活動としては各療養所でのハンガーストライキ、また全国療養所の入所者自治会役員がこっそりと療養所を抜け出して東京の療養所・多摩全生園に集結して国会議事堂に嘆願に向かうなどといったことがなされました。

全患協による参議院通用門前座り込み

昭和28(1953)年7月 全患協による参議院通用門前座り込み

 

恵楓園入所者による「らい予防法」抗議デモ行進

昭和28(1953)年8月7日 恵楓園入所者による「らい予防法」抗議デモ行進

 

このような働きかけにもかかわらず、政府案の法律は公布、隔離政策は続いていくこととなりました。

この後、全患協の法律改正の動きは一時鎮静化、運動の重点はむしろ療養所内での待遇改善の方に置かれていきます。

 

昭和中期から後期

昭和30(1955)年以降、療養所の生活は少しずつよくなっていきます。療養所維持のために療養所から委託された「患者作業」も少しずつ返還され、全患協の熱心な運動の甲斐もあって入所者にも国民年金、障碍者年金が適応されるようになっていきました。

各療養所には独自の文化(スポーツ、文芸、音楽、絵画など)が成長していきました。しかしながらそれらの文化は常にどこか陰影を帯びたものでした。

療養所の生活が改善されてきたとしても、療養所から自由に外出できるようになるには時間がかかりました。また出られるようになったとしても近所の商店や施設が「療養所の入所者の立ち入り禁止」を掲げることが少なくありませんでした。人目を避けるという入所者の生活は変わることが無かったのです。

入所者の多くは治療薬・治療法の進展により患者から「回復者」へと変わっていきましたが、隔離法が継続する中で「治る病」という認識は広まっていくことは無く、そのため故郷に帰ることができない入所者がほとんどでした。

回復者のなかには療養所からの退所「社会復帰」を行うものもいましたが、療養所の入所歴は隠し通す人がほとんどでした。指先のまひなど、病気の後遺症を隠し続ける生活は精神を著しく疲弊させるものでした。

療養所のなかでは結婚は許されても子供を設けることは許されなかったため、全国の療養所で人工妊娠中絶手術、優生手術が実施され続けました。

入所者の生活は“国に面倒を見てもらっている”のではなく、国の規定した範囲から逸脱しないよう強制される生活であり、それゆえ人並みの夢も、家族も、生き方も、人生の選択の自由も与えられませんでした。

入所者は苦しみながら、人生の意味を問いながら、少しずつ年を重ねていきました。

 

療養所最大の罪 -人工妊娠中絶手術と優生手術-

ハンセン病療養所では子供を生むことは許されませんでした。恵楓園の場合、戦前から妊娠した患者に対しての人工妊娠中絶手術、青年期の入所者に対する精管結紮手術が実施されていましたが、これらの手術は所内で子供が生まれた場合、その育て親を探すのが困難であるという事情によるものでした。

療養所では当たり前のようにこれらの手術が実施されていました。頼れる親族もいない、一から外での生活を作り上げる術も失われている、そのような入所者夫婦に一体何ができるというのでしょう。入所者夫婦も医師からの提案を受け入れ、子供の命と家族を持つという人としての当たり前の希望を奪われたのです。

療養所では、入所者夫婦が子供の代わりに人形を可愛がるという様子が見られました。

入所者が子どものかわりに可愛がっていた人形

入所者が子どものかわりに可愛がっていた人形

 

平成期 -国賠訴訟から現在へ-

らい予防法を廃止するという動きは昭和末期ごろから再度、全患協のなかで強まっていきます。一方で、予防法が廃止された場合、「療養所で生活が保たれている入所者はどうなるのか、多くの入所者が高齢に差し掛かっている段階で、いきなり社会に放り出されるのではないか」、そのような声も上がり、様々な議論がなされましたが、最終的には平成8(1996)年に「らい予防法の廃止に関する法律」が公布されるという形で隔離制度の終焉は実現されます。この法律では入所者の在園保障が謳われており、入所者らが生活の場を失うということにはなりませんでした。

しかしながら隔離政策を続けてきた国の責任は明確にはならず、入所者らへの謝罪もなされることはありませんでした。

平成10(1998)年、菊池恵楓園と鹿児島県の療養所・星塚敬愛園の入所者13人が原告となり、隔離政策における国の責任を問う裁判「らい予防法違憲国家賠償請求訴訟」(国賠訴訟)の訴えが熊本地裁に提出されました。

国賠訴訟で主要な役割を果たした志村康さん

国賠訴訟で主要な役割を果たした志村康さん

 

当初は“国に面倒を見てもらってきた”などの被害者意識の低さ、“国に逆らえば療養所から追い出されるのではないか”という恐れ、“故郷の家族が静かにしておいてくれ”と頼んできたという事情から裁判に後ろ向きの入所者も多くいました。

それでも原告の勇気ある訴えに弁護士らも応じ、匿名で裁判に参加できるよう手続きを取るといった対応もとられ、原告の数も増えていきました。

平成11(1999)年 熊本地裁による現地調査

平成11(1999)年 熊本地裁による現地調査

 

平成13(2001)年には原告側勝訴の判決が下り、戦後の隔離政策の過ちが認められました。療養所入所者らには入所歴に応じて補償金が支払われるとともに名誉の回復が約束されました。

平成13(2001)年5月17日 勝訴判決後、内容説明会の会場に向かう入所者ら

平成13(2001)年5月17日 勝訴判決後、内容説明会の会場に向かう入所者ら

 

国賠訴訟後、ハンセン病問題に関する認知が広まり、療養所には多くの見学者が訪れるようになりました。

しかしながらその後、平成15(2003)年には恵楓園の入所者らが熊本県の事業で阿蘇の温泉ホテルに宿泊しようとした際、宿泊拒否を受けるなどの事件も起こっています。「元患者は他の客に迷惑だ」というホテル側の言い分に対して、ホテルの予約手続きを行った熊本県、また恵楓園入所者自治会も抗議を行いますが、この報道を受けた全国からは「入所者がホテルに泊まるなんて生意気」「国に面倒を見てもらっている分際で」などといった手紙、電話が殺到しました。半面、励ましの手紙や支援の申し出なども多く届きましたが、ハンセン病に対する差別意識の根強さを象徴する事件でした(黒川温泉事件)。

入所者の宿泊を拒否したホテル。後に廃業したため現在はない

入所者の宿泊を拒否したホテル。後に廃業したため現在はない。

 

平成20(2008)年に「ハンセン病問題の解決の促進に関する法律」が公布され、国と地方自治体がハンセン病問題の解決に向けた動きをとっていくことが定められました。令和元(2019)年には患者・入所者の家族の被害に対して補償の義務を認める「ハンセン病家族国家賠償請求訴訟」の判決も出されています。

ハンセン病に関する政治的動きは今も続いています。一方で全国療養所入所者の高齢化、減少は進んでおり、ハンセン病の記憶はこの国から少しずつ失われようとしています。